『陳情令』の魏無羨は、物語の中で何度も「邪」と結びつけられます。鬼道を使い、怨念を操り、仙門百家から危険視される。初めて見ると、彼が本当に悪いのか、それとも誤解されているのか分かりにくいかもしれません。
中国語圏の感想では、魏無羨はよく「正道から外れた人」ではなく、「正道という言葉に押しつぶされた人」として語られます。彼の悲劇は、力の種類が危険だからだけではありません。誰が正義を名乗る権利を持つのか、という問題に触れているからです。
仙門の正しさは、必ずしも道徳の正しさではない
『陳情令』の世界では、仙門世家が秩序を作っています。家名、血筋、師門、礼法が重く、どの家に属するかで人の信用が変わります。魏無羨は雲夢江氏に育てられますが、血筋としては江家の嫡子ではありません。この微妙な位置が、後の孤立につながります。
仙門が言う「正」は、世のための正義であると同時に、既存の秩序を守る言葉でもあります。だから魏無羨が危険な力で弱い人を守ろうとしても、その力が秩序の外にあれば、彼は簡単に「邪」と呼ばれます。
鬼道は、彼の罪であり、選ばされた道でもある
魏無羨が鬼道を使うことは、もちろん軽い選択ではありません。怨念を扱う力は危うく、周囲を傷つける可能性もあります。けれど彼は最初から邪道を楽しんで選んだわけではありません。失ったもの、守らなければならない人、普通の方法では届かない現実が、彼をその道へ押し出します。
ここが魏無羨の難しさです。彼は完全に無垢ではない。けれど、彼一人にすべての罪を背負わせることで、仙門百家は自分たちの矛盾を見なくて済む。悪者を一人作ることで、世界は分かりやすくなります。
藍忘機は、正邪の外で彼を見る
藍忘機が重要なのは、魏無羨を単にかばうからではありません。彼は規律の人でありながら、魏無羨を「噂の中の夷陵老祖」としてではなく、目の前の人として見ようとします。これは簡単なことではありません。
『陳情令』を深く見るなら、魏無羨が正しいか間違っているかを急いで決めないほうがいいです。むしろ、誰が彼を悪者にしたがっているのか、その人たちは何を隠したいのかを見る。正邪という言葉が便利に使われる時、人はどれほど簡単に一人を犠牲にできるのか。そこに、この作品の怖さがあります。